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法人設立への経緯

アフリカの子供達の支援を目的として活動しています。
1997年、32年間のモブツ政権の「ザイール共和国」が終わり、カビラ政権に変わりました。国名も「コンゴ民主共和国」と変えました。しかし、その後、ウガンダやルアンダ国境沿いや民族間で内戦が始まりました。その間、経済は益々落ち込みました。
2005年は、親の失業や給料未払いで学校に行けない子供や、学校のストライキなどで、ストリートチルドレンが増え続けました。
2006年、1965年の独立以来待ち望んでいた初めての大統領選挙が実行され、ジョセフ・カビラ氏が改めて大統領と認められました。今は、平和になるための努力をしています。
しかし、長い間の政治経済の不安定は、まだ問題を残しています。
私が「NPO法人アフラシア」を作る決意をしたのは、3人のコンゴ人の言葉からでした。
1997年、激戦地で全滅したと伝えられた軍隊に入ったため、2003年までの6年間、死んだと思っていた義弟が、突然キンシャサの町に現れ、私と電話で話す機会を得ました。 「僕、生きてましたよ。僕いっぱいいっぱい人を殺しました。だけどいつも神様をとっても信じて生きてきました。仕事として、国を平和にするためにと殺しました。ミッションなんです。しかたなかったんです。殺さなければ、僕の仲間が殺されるからです。仲間もいっぱいいっぱい死にました。」
私は、もう軍を辞めるように説得しました。一時は、義弟もその気になりました。しかし、「軍人は辞めたいんですけど、部下の一番若いのは、まだ10才で面倒をみてあげなくちゃいけないんです。親達を殺したから、連れてきて働かせるしかなかったんです。僕たちは人を殺すことばかりしてきたから、町には戻っても仕事もないし。家族や町の人が僕をどうみるか怖いんです。だから軍人は続けても、もう人を殺さないでいいように祈ってください。」
義弟がこんな大変な任務に就き、精一杯生きていたのに、私は、平和な日本で、なんとボーっと生きていたことか。
二人目は、ジャーナリストのゴデフロイド氏です。
彼とは、日本で2003年に開催されたアフリカ会議の取材で来日したした時、初めて会いました。国に帰れば、暇な週末は、孤児院の子供達に、フランス語をボランティアで教えていました。しかし、増え続ける孤児達の寝る場所もない孤児院だと聞きました。
私達は、2004年、日本でチャリティコンサートをし、集まったお金で、その孤児院の土地は買い足したのですが、その1年半後に、「孤児は、まだどんどん増えています。子供達のベッドも食糧も足りなくて、子供たちが孤児院から逃げ出してしまったんです。」ということでした。しかし、それより大きな問題があると私に訴えました。
「今は、独立以来初めての大統領選挙の準備をしていて、大事なことに気づきました。長い政情不安の間、女の子の教育が後回しにされ、今では70%の女性が文盲です。正しい選挙の投票のために女性の文字教育がもっと必要です。」という言葉でした。
三人目は、ミュージシャンのファタキです。
彼はベルギーに住んでいますが、アフリカ音楽のメッカは首都キンシャサです。新しいアルバムを作るため帰国しているときに、ストリートチルドレンのファンクラブができました。しかし、子供達が集まると警察も来るので危険です。(大衆になることを禁じられていたため)そんなかわいいファンの中には、音楽の才能に溢れた子供がいっぱいいました。
「彼らにプロの音楽演奏を教えたいんです。そしたら、自分たちで仕事を探せるでしょ。でも、どうしたらいいの? コンゴ人みんなが自分の生活で精一杯だから、直子さんが、なにか考えて助けてください。」という言葉でした。
2005年は、政情不安や経済の問題から、ますますストリートチルドレンが増え続けました。片や大統領選に出馬する立候補者達もギネス並みの人数でした。この人達こそ、親身になって子供たちの将来を考えるべきだと思い、テレビやラジオで訴えるため音楽と映像をファタキと共に制作しました。
こうして「少年兵」「孤児」「女性の問題」「教育」という言葉は、私の脳裏から離れなくなりました。
私は、ケニアとコンゴに住み、色々な経験や出会いをしました。政治経済がぐらつき始めた1990年は、誰もが日々の生活に困りました。特につらいと思った時は、コンゴで娘を産んだのですが、ストレスで母乳が出なくなったときでした。その時は、近所の女性達が娘に母乳を飲ませてくれました。
貧しいながらも支え合う彼らのために、日本から何をしてあげればいいのか、考えているうちに「NPO法人アフラシア」というスタート地点を作りました。おそらくゴールはないでしょう。
すでに、インドや中国がアフリカに病院や道路、発電所などを作り、深い経済関係ができています。しかし、アフリカの国々は、「日本にこそ助けてほしい」という声も高まっています。
私一人では一つの砂粒のようなものです。どうか、2つ目の砂粒、3つ目の砂粒となって、コンゴ民主共和国が少しでも良くなるようなご協力をお願いいたします。
特定非営利活動法人アフラシア
理事長 ンバンジ直子
主な思い出

★1989年1月
昭和天皇御崩御で、大喪の礼にモブツ旧ザイール大統領が出席のため来日。
来日中、大臣婦人たちと交流。sご一行は、ジャンボ機2機で来た上、新宿のホテルを高級ホテルを貸しきるほどで、貧富の差のひどさを痛感。

★1989年〜1990年
夫の仕事のため、ケニアと旧ザイールに行くが、二人目の長女を出産のため、在住1年2ヶ月。
どこにでも、音楽とダンスがある国に感激し、楽しい毎日ではあったが、色々な出来事を経験するうちに音楽とダンスに癒され、その大切さがしみじみと分かった。
夫は、仕事以外だが、当時、町のバンドとして活躍していた「ソエデソエデ」をプロデュースし、有名にした。



★娘と同じ日に産まれた異常に頭だけが大きい赤ちゃんが、病院で殺されたと聞いた。。
この国の医療では、奇形児は生きていけないからだ。
この経験から、コンゴの子供たちへの支援のあり方を考える年月を経ているが、
まだまだ力の無さを感じる。
墓地には、長さ1メートルもない幼い子供のお墓が多いことが、悲しかった。
しかし、近年の方が、もっと悲しく残酷になっている。


★キンシャサのアフリカ万博や音楽のことで、旧ザイールテレビに数回出演した。
そのたびに、音楽の話しになる。
結婚、葬式、出産・・・どんな時も音楽とダンスが披露される。
音楽やダンスは、コンゴ人にとっては、食べることより大事に見える。
彼らの音楽的才能は、すばらしく、アメリカの音楽界にも、影響を与えている。
政府の偉い人も、お年よりも、教会のミサで、神父さんやシスター達も踊る。
生後数ヶ月の赤ちゃんでも踊る。踊れない人は、病人扱いされる。

★街で、ダンスを披露して客から、チップをもらう少年。
自分の年齢は知らなかった。後ろには、幼い子供たちが待っている。
彼がチップで稼いだお金で、すぐに食べ物を買い、分けてあげていた。

★靴磨きの少年は、自分で働いて学校に行っている。ほかにピーナッツ売りやマンゴ売り、物運びなどで働く子供は多い。コンゴの子供は、たくましい。

★ヴァチカンの司祭を務めるモンセニエ ンバリ来日のためお世話をする。
広島の被爆患者の方々をお見舞いに同行。。院長に、原爆に使われたウランは、旧ザイールのもので、共にコンゴ人労働者も被爆し、また、多くの奇形児が産まれていたことを伝える

★1998年アフリカ戦争始まる。そのため、在日本コンゴ民主共和国大使館に、在コンゴ人の勇士が集ま。そして、在アメリカ大使館へ平和を願う行進を決行。主なメッセージは、「武器をアフリカに売らないで!」という言葉を太鼓と歌で表現した。
★月間「アフリカ」にエッセイ、「リボタムネネ(大家族)」を連載
★日比谷公園「アフリカンフェスタ」にて協力
★アフリカのミュージシャンやタレントの紹介マネジメント。
★コンゴ料理教室講座
★コンゴの紹介講座
http://www.africanfesta.com/2005/program/program_c_s.html#27
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★2003年日本のアフリカ会議のために、本職はデザイナーなので、大使館のために、私物の写真を使い、紹介パンフレットをデザインし、実費で印刷し、寄贈した。



★約25年前から、コンゴ人のコミュニティとともに、コンサートとコンゴ料理で、文化交流の文化交流の協力、またはプロデュースをしてきた。本職のチラシもデザイン制作。

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